過酷な労働や栄養失調、マラリア等で多くの患者が亡くなった早田壕

屋我地島の国立ハンセン病療養所・沖縄愛楽園に残る「早田壕」は、昭和19年(1944)3月に赴任した園長・早田皓の命で築かれた横穴式壕。 その年の7月からツルハシやスコップを使い入所者が手作業で掘削し、当時900人を超える入所者全員が壕へ避難することができた。
翌年4月に米軍が上陸するまで、激しい空襲を受け施設は徹底的に破壊されたが、直撃で亡くなったのは1人だった。
しかし、過酷な壕掘り作業や栄養失調、マラリアなどにより、昭和19年(1944)9月から翌年12月までに289人もの患者が亡くなった。それにもかかわらず、糸満市摩文仁の平和の礎に愛楽園の戦没者の名が刻銘されたのは、60年後の平成16年(2004)になってからだった。また、沖縄戦を生き延びた入所者の多くも壕掘り作業による後遺症を今なお抱えている。
早田壕は現在、平和学習や人権学習に利用されている。