「沖縄の戦跡」平和の尊さを伝える場所
南国の一大リゾート地、沖縄。その強烈な眩しさは、時に、歩んできた悲しい歴史を見えなくします。決して忘れてはならない、もう一つの沖縄を見つめ直しましょう。
![平和祈念資料館展望台から望む「平和祈念公園」と「摩文仁の丘」 平和祈念資料館展望台から望む「平和祈念公園」と「摩文仁の丘」]()
「沖縄戦」終結から76年。
日本で最大の地上戦が行われ、日米双方およそ20万人が命を落とす凄惨な舞台となった沖縄には、今なお様々な戦跡が県内各地に点在します。
時系列に沿って「沖縄戦」の史実を伝えつつ、著名な公園から知られざる自然壕まで今日訪問可能な戦跡を紹介。
今だからこそ考えたい、平和の尊さ。
ライター/小川 研 公開日/2016年 6月 更新日/2017年 6月
「慶良間諸島」から始まった悲劇の沖縄地上戦
![渡嘉敷島北部、山上の「集団自決跡地」。碑の裏の小川がその場所 渡嘉敷島北部、山上の「集団自決跡地」。碑の裏の小川がその場所]()
1945年3月。グアム島を発った「連合軍」第77師団(以下、米軍)沖縄攻略部隊7歩師団は、23日に慶良間諸島、先島諸島、大東島地区を空襲。24日には艦砲射撃を行い、26日に第77歩兵師団が座間味島等に上陸。沖縄戦、最初の地上戦が始まりました。
日本は、前年の2月に沖縄防衛を担当する「第32軍」(以下、日本軍)を編成し慶良間諸島に駐留させ、特攻艇※の基地を作るなど米軍の来襲に備えていましたが、実際には機能しませんでした。
1945年3月26日から27日にかけて、日本軍の抵抗虚しく、狭い島で追い詰められた住民はパニック状態に。米軍は29日には慶良間列島全域を席巻しました。
※特攻艇…爆薬を積み、敵艦に体当たりするためのボート。
※渡嘉敷の「集団自決跡地の碑」住所:渡嘉敷村字渡嘉敷地志布原2772番地
「沖縄本島中部」米軍が上陸し、本島を南北に分断
![「チビチリガマ」は、深さ10メートルほどの谷底にある 「チビチリガマ」は、深さ10メートルほどの谷底にある]()
米軍は、1945年3月下旬、沖縄本島上陸前のおよそ1週間で戦艦10隻・巡洋艦9隻・駆逐艦23隻・砲艇177隻が援護射撃をし、砲弾44825発・ロケット弾33000発・迫撃砲弾22500発を沖縄本島の西海岸に撃ち込みました。
4月1日の朝、米軍約6万人が、守備の手薄な中部西海岸より、水際作戦を放棄した日本軍の抵抗をほぼ受けず無血上陸(北谷村・読谷村「米軍上陸の地碑」)。その日の午後、北飛行場の読谷飛行場と、中飛行場の嘉手納飛行場を占領し、3日までに東海岸の中城湾まで到達、沖縄本島を南北に二分しました。
また、米軍は上陸した4月1日には、住民約140人が避難していた読谷村の洞窟「チビチリガマ」を発見。強制集団死(集団自決)が起こり85人が亡くなりました。一方、そこから数100メートル先、1000人近くが避難していた別の洞窟「シムクガマ」では、ハワイ帰りの移民であった二人の老人の説得により、死者は一人も出ることなく、避難民全員が米軍に投降しました。
「沖縄本島北部」伊江島、やんばるに侵攻した米軍
![伊江島の戦争遺跡「公益質屋跡」。海側の南壁面に砲撃の跡が残る 伊江島の戦争遺跡「公益質屋跡」。海側の南壁面に砲撃の跡が残る]()
本島中部域を制圧した米軍は1945年4月5日以降北部へ進みます。8日には本部半島の八重岳を(「八重岳野戦病院 」)、さらに16日には伊江島に上陸。米軍艦が伊江島を取り囲むなか、日本軍により島民も戦闘に駆り出されました。米軍は、日本軍陣地のある「城山(タッチュー)」に向けて砲撃を継続。その激しい戦闘の痕跡は、今なお「公益質屋跡」にしっかりと残されています。
北部最大の激戦が繰り広げられた伊江島は、4月21日には米軍に占領され、わずか一週間の戦闘で全住民の約1/3が犠牲となりました。現在でも「アハシャガマ」などには、当時の遺品が残されています。
さかのぼること前年の10月10日。朝7時から夕方4時にかけて、米軍機が沖縄を含む西南諸島各地を襲った「十・十空襲」では、屋我地島のハンセン病療養所「国頭愛楽園(現:沖縄愛楽園)」も、爆撃で施設の多くが破壊されました。翌4月、上陸した米軍が療養所と知り攻撃を中止するまで空襲を受けましたが、早田壕への避難により、空襲の直撃による死者は1名です。しかし、不衛生な壕生活や栄養失調、マラリアの蔓延などにより、289名(入所者の約30%)が亡くなりました。
「沖縄本島中南部」日本軍の南部撤退を決定付けた分岐点
![激戦地「シュガーローフ」は、現在の那覇市新都心エリアにあたる 激戦地「シュガーローフ」は、現在の那覇市新都心エリアにあたる]()
首里城地下に築かれた「首里司令部」を本陣に、日本軍は本島中南部で持久戦に持ち込みます。米軍は、これを攻略すべく1945年4月7日頃から中部域を南下するも、首里に至る前の地形的に恵まれた2つの強固な陣地「嘉数高台」と「前田高地」に苦戦しました。4月8日から始まった米軍による嘉数高台への攻撃は16日間も続きました。そして、26日に始まった前田高地攻略はさらに激戦となりました。
また、首里の西側では、5月12日から18日にかけて「安里52高地」(米軍名「シュガーローフ」)」で、日本軍は西海岸から進撃してきた米軍と1週間にわたり激戦を展開。両軍合わせて5000人以上の犠牲者が出たとされます。
これらの激しい攻撃により、5月22日日本軍司令官・牛島満は首里本陣の放棄を決断。この際日本軍には、凄まじい処置がとられたといいます。「米軍の進軍を遅らせるために後衛部隊を残した上に、重症の日本兵は毒殺または置き去りにされたそうです」
このように、米軍は本島上陸地点から首里までの約10キロを50日間かけて進みました。この間日本軍は約10万人のうち約7万4千人の兵力を失い、死者は1日あたり1000人以上にも上りました。この中部戦線こそが沖縄戦の主戦場であり、ひいては太平洋戦争中でも、最も激しい戦闘の地のひとつとされています。
そして戦線は悲劇の最終地、「沖縄本島最南端」へ
![牛島司令官自決の地「摩文仁第32軍司令部壕」は平和祈念公園内 牛島司令官自決の地「摩文仁第32軍司令部壕」]()
1945年5月25日牛島司令官は多くの軍医や看護婦、ひめゆり学徒隊などの従軍看護部隊、傷病兵がいた「南風原(はえばる)陸軍病院 」に南部撤退を命令。27日には、首里本陣から本島南端の摩文仁(まぶに)へ撤退を開始し、米軍は31日に首里の司令部を占領しました。
6月上旬、日本兵約3万人の撤退に伴い、約10万人もの住民も南部に逃げ場を求めます。これまでの約2週間、各地で激しく抵抗した日本軍ですが、追い詰められた牛島司令官は6月19日全指揮を放棄。すでに主力の大半を失い、事実上、日本軍の組織的抵抗が終わりました。23日牛島司令官が自決。その後、米軍は24日から掃討戦を開始し、「アブチラガマ」、「ヌヌマチガマ」、「轟壕」などの南部各地の避難壕を1カ所ずつ粉砕していきました。このときに起きた悲劇を、チーム琉球のメンバーが教えてくれました。「避難民が投降に応じない場合は、火炎放射器やガス弾を放ち、あるいは入口を土砂で覆い生き埋めにしたこともあったそうです。また、断崖絶壁の『ギーザバンタ』などから身を投げた投げたという言説もありますが、正式な記録は残っていないそうです。」
29日までに日本兵約3800人が捕虜となりましたが、それを大幅に上回る約9000人が死亡。大半は手榴弾での自決とされています。
沖縄戦による県民の戦没者は、日米双方の全戦没者(約20万人)の約3/4に当たるおよそ15万人と言われています。そのうち約2/3のおよそ10万人が、南部戦線で亡くなっています。なお、現在このエリアは平和祈念公園を代表とする沖縄戦跡国定公園です。
同年7月2日米軍は、沖縄戦終了を宣言。8月15日に日本は無条件降伏し、9月7日、沖縄守備軍の残存部隊と米軍の間で降伏調印式。こうして沖縄戦が終わりました。