住民、日本兵、そして最大600人もの負傷兵が雑居した南部有数の巨大な自然壕

「アブチラガマ」(別名「糸数壕」)は、昭和19年(1944)7月頃から日本軍の陣地としての整備が始まった。日本軍の陣地・糧秣倉庫及び糸数住民の避難壕として使用されていた。
翌年3月23日から南部が艦砲射撃を受け、24日から糸数集落等の住民約200人が避難。4月下旬、戦場の南下に伴い、「南風原陸軍病院」の分室とされ、軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊も配属。一時600人近い患者が収容されていた。
全長270メートルのガマ内には、水源がある他、発電機も持ち込まれていた。さらに、内部には軍専用の慰安所も設けられ、軍人は一番奥の安全な場所を陣取ったため、住民は危険な(現在の)出入口付近を利用せざるを得なかった。
5月25日、牛島司令官による命令で病院が搬退した後は、重症患者が置き去りにされ、負傷兵と日本兵、住民の雑居状態に。その後、米軍の攻撃を受けながらも、内部では数百人が生き残り、8月22日の米軍の投降勧告まで内部に留まった。この3カ月間で負傷兵を中心に100数十人が亡くなったとされている。
現在はしっかりと管理・整備され、ほぼ全域が公開。修学旅行生を中心に年間10万人以上が訪れる。