1920年代後半では珍しかったコンクリート造りの建物に、沖縄戦による砲弾跡が生々しく残る

世界大恐慌期で村財政や村民の生活も苦しかった昭和4年(1929)12月に、政府の融資を受けて設立された村営の金融機関(質屋)。高利貸の暴利に苦しむ貧民を救う、村で唯一の福祉施設であった。
沖縄戦で島内の建物はことごとく焼き払われたうえに、この施設は島南部の米軍上陸地点から侵攻する方向(日本軍陣地のある「城山」の麓方面)に位置したために、海上の軍艦から多くの砲弾が打ち込まれた。おびただしい弾痕が壁一面に残りながらも、現在も戦跡として原形が保たれている。
なお、同施設は、質物の管理・保存のため強固なコンクリートで建てられており、戦前のコンクリート建造物研究の観点からも注目されている。