約300人もの負傷兵が置き去りにされた凄惨な地

日本軍「国頭支隊」は、昭和19年(1944)11月、大分・鹿児島・宮崎・熊本・沖縄の各県出身の将兵によって編成。伊江島守備隊の第一大隊と、本島守備隊の第二大隊(球七○七一部隊=俗称:「宇土部隊」)、砲兵隊、遊撃隊(護郷隊)、鉄血勤皇隊、防衛隊等、兵員約4000人からなった。
国頭支隊の本部壕は、標高約453メートルの八重岳の頂上付近、斜面西側に設置された。陣地壕から沢を挟んで設けられた「野戦病院(沖縄陸軍病院八重岳分院)」は、病院といっても丸太と茅葺きによる掘っ立て小屋。八重岳と北方の真部山にいた負傷兵が運ばれたが、十分な治療を受けられず、多くが命を落とした。そして昭和20年(1945)4月16・17日、宇土部隊撤退後、およそ300人の重傷者が手榴弾と共に置き去りにされるなどした。
現在は、本部町教育委員会の看板と、看護婦要員として支隊に従軍した「なごらん学徒隊」の標柱が立つほか、草むらに壕跡がかろうじて残る。