40日間の激戦で日米両軍おびただしい犠牲者を出した中部戦線最大の激戦地

首里軍司令部から北東に約4キロ。標高約120~140メートルの「前田高地」は第2防衛線主陣地帯の核心で、首里地区防衛においてことさら重要な地区だった。米軍にとってもこのエリアを奪取することが、首里攻略ひいては日本本土進攻への第一歩として位置づけられていた。そのため、昭和20年(1945)4月26日からおよそ15日間に渡り激しい戦闘が繰り広げられ、日本軍計3000人あまりの犠牲者を出した後、米軍によって攻略された。
長期戦の背景にあったのはその独特な地形。石柱のような「為朝岩」(米軍名「ニードルロック」)が象徴的にそびえ立つ北斜面は、歩兵部隊でさえ縄ばしごを必要とするほどの絶壁。その東約200メートルには高さ130メートルの閉鎖曲線高地、さらにその南東250メートルには高さ135メートルの高地が連なっていた。いずれも戦車の動きづらい地形であった。
現在は、浦添城跡の南側のエントランスがオープンし、そこから前田高地の南側斜面に位置する「缶詰壕」と「カンパン壕」へアクセスする園路が整備され、説明板が設置されている。