日本兵による横暴のなか600人もの住民・県庁職員が生き残った、別名「沖縄県庁最後の地」

内部に川が流れる「轟壕」は、東西におよそ約100メートル延びる巨大なガマ。沖縄戦が始まる前から、周辺住民の避難壕として整備、使用されていた。戦中は最大1000人以上の住民や日本兵が避難していたとされる。
昭和20年(1945)6月5日、当時の島田叡(しまだあきら)沖縄県知事以下、県庁職員幹部が避難。15日、島田知事は、部下に行動の自由を与えるため警察部を含む県庁解散を宣言。これにより「沖縄県庁最後の地」とも言われている。
その後、島田知事は摩文仁の軍司令部壕に向かうため壕を出立。その後、入って来た日本兵により、住民や県庁職員は壕内の湿地帯に追い立てられた。
18日米軍が壕を攻撃するも日本兵は住民の脱出を許可しなかった。しかし、24日すでに捕虜となっていた県民の説得により約600人の住民が投降。米軍に保護された。
注)各日付は糸満市の調査に基づく