杖立温泉 ツウな巡り方を現地編集部が徹底ガイド
豊かな自然に囲まれ、“九州の奥座敷”とも呼ばれる杖立温泉(つえたておんせん)。開湯は約1800年前と伝えられ、古くから湯治場として栄えてきた名湯。あちこちから白い湯煙が立ち上り、昭和のゆったりとした風情が残る温泉街だ。
![昭和の風情あふれる杖立温泉街 昭和の風情あふれる杖立温泉街]()
熊本県と大分県の県境、阿蘇郡小国町の北部に位置する杖立温泉。背後に岩肌が迫る杖立川の両岸に、20ほどの温泉宿が軒を連ねる。ひと言で“宿”といっても、低料金の湯治宿から趣きのある和風旅館、大規模な観光ホテルまで形態はさまざまだ。
温泉の効能と自然豊かな立地から、杖立温泉は古くから湯治場として親しまれ、県内外の多くの人に愛されてきた。湯煙たなびく温泉街には、昔からの“蒸し場”が点在。
さらに、川沿いのメインストリートから一歩内側に足を踏み入れれば、迷路のように入り組んだ路地“背戸屋(せどや)”が広がる。昭和の町並みにタイムスリップしたような感覚が味わえる。
取材/熊本の編集プロダクション「ポルト」、平成27年(2015)8月
1800年の歴史と、弘法大師が感銘を受けた泉質
![天然の保湿成分「メタケイ酸」を多く含むという杖立温泉 天然の保湿成分「メタケイ酸」を多く含むという杖立温泉]()
杖立温泉の歴史はとにかく古い。1800年以上前に開湯し、神功皇后が応神天皇を出産した際の産湯だったとも伝えられる。その後、平安時代の初頭には、旅の途中で訪れた弘法大師空海も温泉の効能に感銘を受けた。
「湯に入りて 病なおれば すがりてし 杖立ておいて 帰る諸人」 ―― 弘法大使が詠んだとされるこの歌は、「杖をついて湯治に来た老人や病人も、杖を置いて(立てて)帰る」という意味で、“杖立”の名の由来といわれる。昭和の初期から中期ごろにかけては、杖立温泉は歓楽街の温泉地として栄えた。昭和の香りが漂うノスタルジックな町並みが、今もその面影をとどめている。
杖立温泉の泉質は、弱アルカリ性の単純温泉。無色透明で肌触りがやさしく、疲労や神経痛、リウマチなどに効果がある。“美肌の湯”とも称されるのは、天然の保湿成分といわれる「メタケイ酸」を多く含むため。また、湯治場としての歴史の長さから、割安な連泊料金が設定されている宿も多い。
清流・杖立川の恵み
![それぞれの季節で、異なる表情を見せる杖立川 それぞれの季節で、異なる表情を見せる杖立川]()
杖立温泉を語る上で欠かせないのが、温泉街の中心を流れる杖立川。「杖立川は大好きな場所」と、達人・河津さんは言う。「子どものころはいつも、この川で遊んでいましたね。昔は川と山が地元の子どもたちの遊び場だったんです」
杖立川から吹き上げる風はひんやりとして、夏でも過ごしやすい。8月下旬にもなると、朝晩は肌寒いくらいだ。昭和50年代ごろまでは、真夏でも扇風機いらずだったとか。また、杖立の夜も魅惑的で、温泉街全体がひっそりと静寂に包まれる。
「川の音しか聞こえません。この音に慣れているから、ときどき都会で泊まると、夜は物音で眠れないんですよね」と河津さんは笑う。清流の杖立川にはアユやコイ、ハエ、イダなどの川魚が生息しており、6月から9月にはアユ釣りがシーズンを迎える。
「川の流れが速いから、杖立川で獲れる川魚は身が締まってうまい。7月から8月ごろのアユなんて最高ですよ。15~20センチくらいの小ぶりのサイズが特においしいかな」(河津さん)
もちろん温泉街には、そんなアユ料理を提供する食堂がある。
地元でも愛される共同湯
![「薬師湯」に三つある共同湯の一つ。タイル貼りの浴槽がレトロだ 「薬師湯」に三つある共同湯の一つ。タイル貼りの浴槽がレトロだ]()
杖立の温泉街には、「元湯」に「薬師湯」、「御前湯」と三つの共同湯がある。中でも元湯は応神天皇の産湯とされ、いわば“杖立温泉発祥の湯”。杖立川の河畔にある野趣にあふれた風呂で、川音を聞きながらのんびり漬かることができる。混浴で遊歩道に面しているため、入るには勇気が必要だが、夜に満天の星空を眺めながらの入浴の喜びは何物にも代えがたい。
また、「御前湯」は別名“殿様湯”と呼ばれる。
「江戸時代の参勤交代の際、肥後藩の六代目藩主が天領・日田を経由して江戸へ向かう際に入っていたといわれるお風呂です。温泉街の一般家庭には、お風呂がない家が多いんです。だから毎日、共同湯や旅館へ入りに行きます。ぜひ共同湯で、地元の人たちとの触れ合いを楽しんでみてください」(河津さん)
98℃の熱湯が生んだ独自の“蒸し文化”
![温泉街に設置されている蒸し場 温泉街に設置されている蒸し場]()
“蒸す”というのは、杖立温泉の魅力を伝えるキーワードの一つ。杖立温泉の源泉温度は約98℃。街の至るところで見られる湯煙は、高温の源泉が噴出している証拠だ。
温泉街では、温泉の蒸気を利用した「蒸し場」がそこかしこにある。蒸し器に生卵を入れると、15分ほどで蒸し卵に。「私が子どものころは白米も蒸していました。春はタケノコを蒸すと、ほくほくとしておいしいですよ」と河津さん。蒸し場の半数は観光客にも無料開放されている。
温泉蒸気を利用した「蒸し湯(むしゆ)」は、ほとんどの旅館にある。“風邪を引いたらまず蒸し湯”といわれるほど、昔から杖立温泉の生活に溶け込んできた。肌から温泉成分を直接吸収できる天然のサウナで、美肌効果だけでなく、全身の発汗などによる新陳代謝の促進も期待できる。浴室内では大の字に寝るのがより効果的で、目安の入浴時間は5~10分。最後に温泉に漬かり、さっぱりと汗を流すのがおすすめだ。
地元の暮らしが息づく路地裏“背戸屋”を散策
![路地が迷路のように続く“背戸屋” 路地が迷路のように続く“背戸屋”]()
川岸から温泉街へ一歩足を踏み入れると、起伏に富んだ狭い路地が迷路のように広がる。これは旅館や店舗、民家などがひしめき合いながら、長年にわたり増改築を繰り返してきたため。この独特な街並みが“背戸屋(せどや)”と呼ばれ、杖立温泉街の名物の一つとなっている。
「杖立温泉というと、杖立川沿いに旅館が建ち並ぶ姿が有名ですが、この背戸屋という温泉街の裏の世界の面白さを多くの人に知ってもらいたいですね」(河津さん)
背戸屋を散策すると、昔ながらの土産物店やスナック、杖立土産の定番・竹細工の工房などのほか、薬師堂やお地蔵さんなどが点在。まるで昭和にタイムスリップしたかのような感覚に陥る。さらに最近では、おしゃれなカフェや雑貨店なども登場し、面白い共存の姿を見せている。
杖立温泉には、4月から5月にかけて二つのイベントがある。毎年4月1日~5月6日に開催されるのは「鯉のぼりまつり」。数千匹の色鮮やかな鯉のぼりが、杖立川の上空を泳ぐさまは圧巻だ。
また、5月27日と28日の夜には「杖立温泉祭」が開催される。多目的広場特設舞台で行われる「杖立伝承芝居観劇会」が最大の呼び物で、平成27年(2015)には50回を記念。昭和のころに始まったイベントだが、伝承芝居としての歴史はさらに古く、明治時代からといわれる。観覧無料で、地元の男衆による喜劇や人情劇の熱演が披露されるので、時期を合わせて訪れるのもいいだろう。