鹿児島市内のおすすめ観光 幕末史跡を巡る
多くの偉人を輩出し、幕末から明治初期にかけて歴史的な戦争の舞台となった鹿児島市。仙巌園や砲台跡、西郷隆盛終焉の地など、ここには数多くの歴史的な史跡が残っている。
![島津斉彬も過ごした島津家の別邸「仙巌園」 島津斉彬も過ごした島津家の別邸「仙巌園」]()
明治維新は平成30年(2018)に150周年を迎える。この幕末から明治初期にかけての時期に、日本では古い体制が壊され、欧米列強に負けない国へ発展を遂げた。
近年、この明治維新に大きく貢献した偉人たちの生まれ故郷である鹿児島の観光人気が、再び高まってきている。特に鹿児島市内は、西郷隆盛や大久保利通、テレビドラマで脚光を浴びた五代友厚(ごだいともあつ)などが生まれた場所だ。
彼らはどのような場所で生まれ育ったのか。また、薩摩藩の方針を大きく転換させた薩英戦争は、どのような痕跡を残したのか。西南戦争による西郷隆盛最期の地や、城山など、鹿児島市内で外せない幕末史跡を紹介する。
取材/平成28年(2016)4月
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仙巌園 世界遺産にも登録された薩摩藩主の別邸
![一部公開されている当時のままの屋敷が美しい「仙巌園」 一部公開されている当時のままの屋敷が美しい「仙巌園」]()
万治元年(1658)に島津家の第19代当主・光久(みつひさ)によって造園された庭園「仙巌園(せんがんえん)」。それ以後も島津家の別邸として使われ、平成27年(2015)には大名庭園としては初めて世界遺産に登録されている。鹿児島中央駅から仙巌園へと向かう場合は、カゴシマシティビュー(鹿児島市営バス)やまち巡りバスの利用が便利だ。
仙巌園の最大の見どころは、何といっても御殿の正面からの景色。“借景技法(しゃっけいぎほう)”と呼ばれる庭の配置によって、桜島を築山(つきやま)に、鹿児島湾を池に見立てたダイナミックな景観が広がる。自然の風景が庭の一部になっているような眺めは、鹿児島を代表する撮影スポットとなっており、記念撮影にもおすすめだ。
仙巌園では季節の催し物も多く、参宴者が武家の礼装で詩歌を作る春の「曲水の宴」をはじめ、御殿前で島津家に伝わる全長10メートル超ののぼりがはためく夏の「五月幟」、武家の礼装で矢を射る秋の「草鹿式(くさじししき)」などがある。また、冬の正月三が日には、着物の来園者が入園無料になる。
島津家の29代藩主・忠義(ただよし)が本邸として使っていた御殿では、着物姿の専門ガイドによる御殿ツアーも行われている。ここには最後のロシア皇帝・ニコライ二世との会食の場もあり、当時の殿様の生活を肌で感じることができる。
市内3カ所にある薩英戦争の砲台跡
![時代を揺るがした砲台跡の一つ、「祇園之洲砲台跡」 時代を揺るがした砲台跡の一つ、「祇園之洲砲台跡」]()
薩英戦争で攻撃の拠点となった鹿児島市の砲台跡は、現在は天保山と新波止場、祇園之洲の3カ所にある。それぞれに公園などが整備されているが、当時使われた防壁部分は現在も見ることができる。文久2年(1862)に起こった「生麦事件」をきっかけに、イギリスと薩摩藩の間で「薩英戦争」が開戦。その際に、これらの砲台は活躍した。
薩英戦争の結果、城下は炎上し、薩摩藩はイギリスへ賠償金を支払うことになるが、イギリス側の被害も甚大に。皮肉にも薩摩藩とイギリスは、この戦争を通じて相手の実力を認め合い、両者はその後、互いに急接近。薩摩藩の倒幕の動きへとつながっていくことになる。
三つの砲台のうちの一つ「祇園之洲砲台跡」へは、カゴシマシティビューの「石橋公園前」か「祇園之洲公園前」のバス停で下車して向かう。ここは現在は「石橋記念公園」として整備されており、砲台跡の石垣や甲突川に掛かっていた石橋などが保存されている。薩英戦争時、この石垣の上には6門の砲が置かれ、同戦争の中でも特に激しい砲撃戦が繰り広げられたといわれる。
「私学校跡」に残る西南戦争の痕跡
![明治政府軍との激闘の跡が生々しく残る「私学校跡」の石垣 明治政府軍との激闘の跡が生々しく残る「私学校跡」の石垣]()
明治10年(1877)1月30日に、明治政府の行動に激昂した一部の私学校の生徒らが、草牟田の政府火薬庫を襲撃する事件が起きた。これをきっかけに西郷軍と明治政府の間で「西南戦争」が勃発するのだが、西郷隆盛が郷土の士族たちのために創設した私学校は、西郷軍の本拠地ともいえる場所となった。そのため、城下に12、県内に136の分校があった私学校には、明治政府軍によって壮絶な攻撃が行われたことが知られている。
当時から約140年が経過した現在、かつて私学校があった場所には、鹿児島医療センターが建つ。歩道に面した石垣は県の史跡にも指定されており、無数の銃弾の跡が、生々しい激戦の跡として刻まれている。ぜひ近くで見てほしい。
城山 ―― “西郷隆盛終焉の地”へ
![静かな場所にある「西郷隆盛終焉の地」 静かな場所にある「西郷隆盛終焉の地」]()
島津家本城であった鶴丸城趾の裏手にそびえる山。この山こそ、西南戦争最後の激戦地となる「城山」だ。
城山には、最後の「薩軍本営跡」に加えて、西郷隆盛が最後に過ごした「西郷隆盛洞窟」、そして最期を迎えた「終焉の地」がある。ルートとしては、まず城山公園にある薩軍本営跡へ向かい、その後で城山を下る形で洞窟へ。さらに坂道を下って終焉の地を巡れば、当時の西郷に行動を重ねられる。
特に西郷隆盛終焉の地は、他の史跡とは違い、とりたてて景色が良いわけでもなく、どこか物悲しさを感じさせる静かな場所だ。股と腹に被弾した西郷は、別府晋介に「晋どん、晋どん、もうここらでよか」と声をかけた後、自刃したといわれている。自分よりも周囲を大切にした西郷らしい“最期の場所”ともいえるだろう。
加治屋町 西郷隆盛や大久保利通らが育った地
![偉人たちが育った甲突川沿いは、現在は「維新ふるさとの道」に 偉人たちが育った甲突川沿いは、現在は「維新ふるさとの道」に]()
鹿児島中央駅から歩いて約5分。鹿児島市の中心部にある加治屋町は、多くの偉人が生まれ育った場所だ。西郷隆盛や大久保利通をはじめ、東郷平八郎や大山巌、西郷隆盛の実弟で後に海軍大将となる西郷従道など、枚挙にいとまがない。
「いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである」 ―― 歴史小説家の司馬遼太郎さんは、加治屋町で生まれた人々についてこう記している。元々は薩摩藩の下級武士たちが住む地域であり、彼らもまた下級武士出身だったが、薩摩藩に伝わる郷中教育(ごじゅうきょういく)を幼少期より受け、幕末の精鋭となっていった。
そんな加治屋町では現在、偉人たちの生誕の地を巡るコースが設定されているほか、甲突川に沿って桜並木や散策路が整備されており、ロードの途中には鹿児島の歴史を学べる「維新ふるさと館」もある。幕末史跡めぐりのおさらいにぴったりの場所だ。