近代

熊本県の歴史

球磨川下り
 

明治4年(1871)には、熊本医学校と熊本洋学校が設立された。こうして西洋文明による近代化が図られるとともに、廃藩置県で熊本藩は熊本県に、人吉藩は人吉県となった。明治9年(1876)には、長崎県に編入されていた天草県を含め、すべてが熊本県に合併される。また同年、熊本が主な戦場となる「神風連の乱」が起こり、翌年には「西南戦争」が勃発した。明治23年(1890)、鉄道や航路の発展により、八代の港周辺には多くの工場が建設され、九州で第1号のセメント工場が操業を開始。さらに明治の半ばを過ぎると「万田坑」が開かれ、大正から昭和にかけては、各施設の電化や機械化に伴い出炭量が増大し、さらなる近代化への後押しとなった。

 

西南戦争

田原坂弾丸跡の家

明治政府に対して、西郷隆盛を盟主にして明治10年(1877)に起こった最大かつ最後の反乱が「西南戦争」で、「西南の役」ともいう。西郷隆盛が征韓論に敗れて官職を辞し、鹿児島に設立した私学校の生徒が、西郷を擁して挙兵。東京を目指す途上で、熊本鎮台司令長官谷千城(たにたてき)が籠城する熊本城を包囲するが、政府軍の反撃にあって敗退。52日間におよぶ乱は鎮圧され、敗れた西郷は鹿児島の城山で自刃した。この戦いにより、熊本城の大部分は焼失した。

夏目漱石の赴任

夏目漱石内坪井旧居

夏目漱石は、明治29年(1896)4月~明治33年(1900)7月の4年間、第五高等学校(現在の熊本大学)に英語の教授として赴任している。初年の6月9日、前年に東京で見合いをした中根鏡子と結婚。式は漱石が居住していた熊本市下通町の借家の離れで行われ、夏が終わったころの約1週間、新婚旅行を兼ねて九州北部を逸楽した。熊本時代に漱石は、『二百十日』や『草枕』などを執筆。二百十日は、同僚と二人で目指した阿蘇山が舞台となっている。火口に向かって登り始めるが、途中で暴風雨にあい道に迷って風穴に落ちてしまうという内容だ。最後の年の7月20日、熊本での任務を終えた漱石は、妻と子を伴い留学先のイギリスへと旅立った。

万田坑

万田抗・第二竪坑櫓

県最北西端にある炭坑「万田坑」は、明治30年(1897)から明治35年(1902)にかけて、有明海に臨む荒尾市に三井三池炭鉱の一部として造られた。「第一竪坑」と「第二竪坑」から成り、年平均66万~86万トンを出炭し、日本の近代化に大きく貢献した。その後、昭和26年(1951)には採炭効率が低下したため採掘を中止、第一竪坑などの諸施設が解体。しかし、第二竪坑は揚水や坑内管理のため、施設は平成9年(1997)まで維持されていた。平成27年(2015)7月5日には、万田坑を含む「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の世界遺産登録が決定した。国の重要文化財でもある。

八千代座

八千代座

明治43年(1910)、当時、商工業で潤っていた山鹿市の旦那衆が、町の繁栄を図るため組合を創設。1株30円の株を募って建設した芝居小屋が「八千代座」だ。建物は入母屋造りで、間口約29.5メートル、奥行き35.4メートル余り。直径8.45メートルの回り舞台も備える。大正から昭和にかけて、長谷川一夫や岡田嘉子、片岡千恵蔵などの当代一流の芸能人が出演した。現在はコンサートや落語会、坂東玉三郎舞踊公演などが定期的に行われている。国指定重要文化財。

今、この宿、見られてます

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