近代(明治から昭和初期)

鹿児島県の歴史

南洲墓地
 

明治4年(1871)、廃藩置県により大隅と薩摩が鹿児島県となった。明治10年(1877)2月15日、西郷隆盛軍の先発隊が出発し西南戦争が始まり、同年9月24日、政府軍の総攻撃で西郷は自刃。9カ月の内乱に終止符が打たれた。明治22年(1889)には市制・町村制により、鹿児島市などの市町村が誕生した。 大正3年(1914)、桜島が大噴火を起こし、大隅半島と陸続きになる。その後、第二次大戦末期には県内のあちこちに特高基地が設けられ、多くの若者が犠牲になった。

 

桜島噴火

鹿児島湾(錦江湾)にある桜島は、東西の長さが約12キロ、南北が10キロ余り、周囲は55キロほどの火山島で、面積はおよそ77平方キロ。大正3年(1914)1月12日の午前10時5分、南岳から突然の噴火が始まり、2時間余りで桜島全島が黒煙や白煙に包まれた。さらに夕方には爆発音とともに地震が発生し、鹿児島市内や周辺の民家などが倒壊。噴火は約1カ月にわたって続き、多量の溶岩が流出した。この噴火によって、約400メートルの海峡で隔てられていた桜島と大隅半島は陸続きになった。死者は58人に上り、火山灰は東北地方にも及んだ。

特攻隊基地

知覧特攻平和会館(特攻隊基地)

第二次大戦の末期に本土防衛の最前線となった鹿児島県には、多くの陸海軍基地が設けられた。鹿屋(かのや)、串良(くしら)、知覧(ちらん)、国分、万世、出水(いずみ)の各飛行場からは、若者が操縦する多くの特攻機が南の空へと飛び立った。「特攻隊」とは、爆弾や爆薬などを軍用機や高速艇に積み、戦死覚悟で敵に体当たりする“特別攻撃隊”のこと。特攻隊の出撃基地として最もよく知られる知覧には、現在は「特攻平和会館」があり、戦死した1036人の遺品や関係資料が展示されている。屋外には戦闘機や特攻隊員の像、母の像、平和の鐘、隊員の宿舎だった三角兵舎などが配されている。また、串良と国分の基地跡には基地記念碑が、鹿屋には特攻隊戦没者慰霊塔が立っている。

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