古代から中世

熊本県の歴史

草千里と中岳
 

阿蘇山では30万年前から9万年前に、大規模な火砕流を伴う大噴火を、四度にわたって起こしている。この時に誕生したのが、世界有数の規模をもつ「阿蘇カルデラ」だ。その後も阿蘇山は噴火を繰り返しており、今もなお火山活動が続いている。また、熊本県では多くの遺跡が発見されているが、特異なのは石棺に色を使って紋様を描いた「チブサン古墳」だ。大永・享禄年間(1521~1531)には、隈本城(くまもとじょう)が完成。後に加藤清正が入府し城郭を築き、熊本城と改名した。寛永9年(1632)からは細川忠利の居城となり、明治維新まで細川氏が国主を務めた。

 

阿蘇カルデラ誕生

阿蘇の米塚とカルデラ

カルデラは噴火の際、火砕流を伴うことで形成される。阿蘇山は過去4回の大噴火のたびにカルデラを作ってきたが、そのカルデラが同じ場所にできたため、現在の巨大なカルデラが出現したと考えられている。最大規模の噴火は9万年前で、この時の火砕流は九州の北半分を焼き尽くし、火山灰は偏西風に乗って北海道まで達したという。阿蘇カルデラの大きさは南北に25キロ、東西に18キロ、面積は約350平方キロ。カルデラには阿蘇市があり、また阿蘇内牧温泉や阿蘇赤水温泉などが湧く。

チブサン古墳

チブサン古墳

山鹿市にある前方後円墳で国指定史跡、「チブサン古墳」。今からおよそ1500年前に築造されたと考えられ、複数の横穴式石室がある。後室の石棺には、幾何学模様や王冠をつけた彩色壁画が見つかっており、代表的な日本の装飾古墳の一つといわれている。古墳は全長45メートル、後円部の直径23メートル、高さ7メートル。中央に描かれている二つの装飾の紋様が女性の乳房に見えることから、「チブサン」の名が付いた。

肥後国衆一揆

熊本城本丸御殿の闇り通路

天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐の際、52人の肥後国人が秀吉から領地を安堵された。しかし、肥後国を拝領した佐々成政(さっさなりまさ)の性急の検地に不満を抱いて決起。これが、「肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき)」だ。成政は、国人たちがこもった隈府城を攻撃したが、逃走した国人ら一揆軍は3500余りの兵を挙げ、成政の本拠である隈本城を包囲した。成政の要請で、秀吉は1200人の援軍を送るとともに、九州と四国の大名を総動員して一揆軍が籠城した田中城を攻め、争いは鎮圧された。翌年2月に成政は尼崎に幽閉され、その後自害した。

 

熊本城築城

熊本城本丸御殿

天正19年(1591)、加藤清正は隈本城があった茶臼山一帯に城郭を築き始め、慶長5年(1600)に天守閣が誕生。その6年後、天守閣をはじめ49の櫓、18の櫓門、29の城門を備えた城はすべて完成し、清正は「隈本」を「熊本」と改めた。隈の字のつくり「畏」が「おそれる」や「おびえる」を意味することを忌み嫌ったため、力強く勇ましさを感じさせる「熊」の字に変えたといわれる。250年余りにわたって細川氏が守り続けた熊本城だったが、明治10年(1877)の西南戦争で大部分が焼失。現在の天守閣は、昭和35年(1960)に再建されたものだ。

 

通潤橋が完成

通潤橋

安政元年(1854)、惣庄屋・布田保之助(ふたやすのすけ)が、水不足に悩んでいた山都町白糸台地の人々を救うために水路橋を建造した。肥後の石工たちが集められ、日本最大級の石づくりのアーチ水路橋「通潤橋」が完成。長さ75.6メートル、高さは20.2メートルあり、橋脚の下部は城の石垣のように張り出している。橋の上部には3本の通水管が通り、現在も中央の放水口から半円を描いて水が放出される観光放水が行われている。

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