鹿児島の世界遺産 ―― 明治維新の力を感じる産業遺跡を訪ねて
平成27年(2015)に、鹿児島市内の三つの資産が「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録された。鎖国時代から飛躍的に技術的、経済的に発展した日本の中でも、鹿児島の貢献は大きなものだった。明治維新の力を感じられる鹿児島の世界遺産を巡ろう。
![異人館とも呼ばれる「旧鹿児島紡績所技師館」の建物 異人館とも呼ばれる「旧鹿児島紡績所技師館」の建物]()
幕末、イギリスやフランスなどのヨーロッパ諸国が、植民地化によりアジアへと進出してきていることに危機感を抱いていた薩摩藩。嘉永4年(1851)に薩摩藩主となった島津斉彬(しまづなりあきら)は、産業や軍備の近代化が何よりも重要だと考え、特に製鉄・造船・紡績に力を注いだという。
大砲や洋式帆船の建造、武器・弾薬づくり、食品製造、ガス灯の実験などが行われ、現在でも鹿児島市内には、幕末から明治にかけての時代に展開された幅広い事業を物語る遺跡が残っている。そんな鹿児島の偉大な歴史と文化に触れられるスポットを、達人とともに紹介する。
取材/コレット編集部、平成28年(2016)11月
尚古集成館 ―― 近代文化の先駆けの地
![世界遺産を構成する資産の一つ、「尚古集成館」 世界遺産を構成する資産の一つ、「尚古集成館」]()
平成27年(2015)、鹿児島の3資産を含む「明治日本の産業革命遺産」が、世界遺産に登録された。その三つとは、旧集成館と寺山炭窯跡、そして関吉の疎水溝だ。
鹿児島観光の定番スポット「尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)」は、反射炉跡や旧鹿児島紡績所技師館(異人館)などとともに、「旧集成館機械工場」として上記の「旧集成館」に含まれる。尚古集成館は、同じく鹿児島市内の定番スポットである「仙巌園(せんがんえん)」と同じ敷地内にあり、入場料を払えば両方を一緒に観光することができる。
かつては船などの金属加工機械や機関類を整備・製造する場所だった尚古集成館は、現在は島津家の歴史や近代化事業を紹介する博物館となっている。実際に稼働していた機械の展示や、江戸時代につくられた薩摩切子、薩摩藩の歴史が分かる資料などを見学できる。
また、現存する日本最古の洋式機械工場である尚古集成館の建物も見どころで、壁は火山由来の凝灰岩で造られている。国の重要文化財にも指定されており、桜島を目前に堂々と立つ歴史的建築物から、力強い明治の風を感じられるはずだ。
尚古集成館や仙巌園のすぐ近くには、“異人館”の名で知られる「旧鹿児島紡績所技師館」がある(入場料は別途必要)。こちらは、日本で初めて薩摩藩により設置された洋式紡績工場「鹿児島紡績所」へ技術指導のために招かれた英国人技師たちの宿舎として建築された建物。尚古集成館とあわせて、忘れずに巡ってほしい世界遺産だ。
関吉の疎水溝へ。シラス台地から流れ出る水
![現在も一部農業用水路として利用されている「関吉の疎水溝」 現在も一部農業用水路として利用されている「関吉の疎水溝」]()
もともとは島津家別邸の生活用水として、棈木川(あべきがわ)から水が引かれていたという。しかし、藩主・島津斉彬による「集成館事業」(幕末に薩摩藩が推進した製鉄や造船、紡績などの近代化事業)に水車動力を使うため、仙巌園まで流れる約7キロの疎水溝が利用された。その取水口跡が、「関吉(せきよし)の疎水溝」だ。
現在は、市街地の造成や自然災害などにより、水路は実方橋(さねかたばし)の手前で途絶えている。それでも、トンネルが通っている場所があることや、ゆるやかな傾斜角度の水路などを見れば、当時の技術レベルの高さがうかがえる。自然を最大限に利用しながら、近代化に向けて邁進していた薩摩の力を垣間見られる場所だ。
豊富な森林資源を利用した「寺山炭窯跡」
![鉄製品製造に使用する木炭がつくられた「寺山炭窯跡」 鉄製品製造に使用する木炭がつくられた「寺山炭窯跡」]()
当時、製鉄業には石炭が不可欠だったが、薩摩藩領地内では良質な石炭が産出されていなかった。そのため、恵まれた鹿児島の森林資源を生かして、木炭づくりに着手することになる。
そして安政5年(1858)、集成館の所在する磯地区に近く、木炭に適したシイやカシに恵まれた寺山地域の3カ所に炭窯が造られた。ここで焼かれた木炭は「白炭(しろずみ)」と呼ばれ、熱効率が高く非常に上質なものとして知られている。集成館事業には欠かせなかった火力は、こうして生み出されたのだ。
現在、寺山炭窯跡地に残っている炭窯は1基のみで、残りの2基の建設場所は分かっておらず、いつ消失したかは現在のところ不明。しかし、現存する窯から、当時の姿を想像することはできる。また、寺山炭窯跡は自然遊道内にあるので、ハイキングがてら訪れるのもいい。
最後は、仙巌園の「反射炉跡」へ
![基礎部分の石積みを見られる仙巌園の「反射炉跡」 基礎部分の石積みを見られる仙巌園の「反射炉跡」]()
仙巌園の入り口に入ると、まず目に飛び込んでくるのが、大きな大砲「150ポンド砲」だ。その後方には、かつて熱を反射させて鉄を溶かし大砲の型に流し込む施設であった「反射炉跡」がある。
薩摩藩では、海に面した城下を敵から守るために、城下の砲台に「カノン砲」と呼ばれる大砲を備えるべきだと考えられていた。しかし、当時は鎖国時代で国外から技師などを呼び寄せることができなかったため、オランダの書面や図面だけを頼りに、反射炉建設に着手せざるを得なかったのだ。
一時は難しいと思われた計画も、幾度となく失敗を重ねた後に、ようやく2号炉を完成させることに成功したという。無理難題にも真っ向から向き合い、決して諦めなかった当時の薩摩人たち。その後の日本の近代化に大きく貢献した人々の努力の痕跡を、ここで目の当たりにできる。