近代

長崎県の歴史

オランダ坂
 

唯一の貿易地だった出島を除き、江戸時代から200年以上にわたって日本の鎖国が続いたが、下田港(静岡県)、箱館港(北海道)、横浜港に次いで、安政6年(1865)に長崎港が開かれた。開港後には外国人居留地や多くの洋館が造られ、異国の町並みが出現。江戸幕府崩壊後の慶応4年(1868)には長崎府が置かれ、翌年には長崎県に改名される。その後、県の分立や他県との統廃合などを経て、明治16年(1883)に現在の長崎県が成立した。安政4年(1857)には、徳川幕府が日本で最初の艦船修理工場「長崎鎔鉄所」を設立し、明治4年(1871)には明治政府が引き継ぎ、さらに明治17年(1884)からは三菱重工が継承し、長崎の造船業の歴史を守っている。

 

グラバー来日

グラバー園にあるグラバーの像

トーマス・ブレーク・グラバーは、長崎開港から1年が経った安政6年(1859)に、21歳の若さで来日した商人だった。グラバーは長崎で、坂本龍馬や薩長に協力し戦艦や武器、弾薬などを売るグラバー商会を設立。慶応年間(1865~1868)には、長崎における外国商館の最大手にまで成長した。また、グラバーは伊藤博文らの英国への密留学を支援したり、森有礼(もりありのり)らの秘密裏の訪欧にも協力したりした。さらに日本初の洋式ドックの建設や、最新の採炭機械の導入と本格的な石炭採掘の開始などで、日本の近代化に大きな役割を果たした。晩年は東京で暮らし、明治44年(1911)に他界(享年73)。

佐世保鎮守府開庁

弓張展望台より佐世保市街地

各海軍区の警備、防備、所管の出征準備などを役割とした海軍の機関である「鎮守府」を、軍港とともに全国4カ所に開庁することが決定。まずは明治17年(1884)に横須賀(神奈川)に設けられ、明治22年(1889)に呉(広島)に、明治24年(1891)には舞鶴(京都)に設置された。佐世保には、かつての水軍である松浦党ゆかりの地であることや、天然の良港であることが評価され、呉と同年に置かれた。初代鎮守府司令長官には、オランダ語や砲術などに長けた海軍中将・赤松則良が選任された。

戦艦「三笠」爆発沈没

戦艦三笠・横須賀の三笠公園に係留

明治38年(1905)、日本海海戦を終えた戦艦「三笠」が佐世保軍港に帰還した。その後、呉軍港で1カ月余りの修理を終え、佐世保軍港に戻った同年9月11日未明に、突然後部弾薬庫が爆発炎上し、船体に開いた穴からの激しい浸水により沈没。この事故で、死亡2人、不明230人、重傷4人、軽傷3人、怪我の程度不明199人となり、さらに港要員などを合わせると死傷者は599人となった。爆発の原因は火薬の変質という説があるが、定かではない。翌年に三笠は引き揚げられ、佐世保工廠(こうしょう)で修理され、明治41年(1908)に現役に復帰した。

長崎電気軌道開通

路面電車(長崎電気軌道)

「長崎電気軌道」は、長崎市街地走る路面電車。大正4年(1915)、病院下から築町間の3.7キロで営業を開始し、その後、路線は短期間で延伸された。現在の路線が、おおかた完成したのは大正10年(1921)。昭和43年(1968)には、思案橋から正覚寺下までの0.3キロが延長され、現在は4路線が運行している。車両は昭和20年代製造の201形や300形、同30年代の360形や370形など、レトロなものから平成生まれのモダン電車まで幅広い。昭和39年(1964)には日本初の車体広告を導入。運賃は1回乗車140円と他の都市と比べても低価格。

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