古代から中世

長崎県の歴史

壱岐にある双六古墳
 

長崎県内には500基余りの古墳がある。中でも壱岐では、その半分の250基ほどが見つかっており、古墳時代には身分の高い人物が住んでいたと推測されている。奈良時代には、大和政権によって対馬に朝鮮式の山城「金田城」が築かれ、東国地方の防人(さきもり)に任を命じ、中国の唐と古代朝鮮の新羅(しらぎ)からの日本侵略に備えた。天文年間(1532~1555)には、スペインの宣教師、フランシスコ・ザビエルが平戸島を訪れ、キリスト教を布教。寛永14年(1637)には天草四郎を総大将とした「島原の乱」が起き、翌年に幕府軍が勝利した。

 

対馬銀山

対馬銀山

天武天皇2年(674)、忍海大国(おしうみのおおくに)が対馬で産出した銀を朝廷に献上したと伝わる日本最古の銀山遺跡、「対馬銀山」。平安時代になると対馬の調(納税)は、延喜式(律令の施行細則)で銀と定められ、大宰府に毎年890両を納めるよう布令された。その後、官営となり、採掘された銀はすべて国税として都に届けられ、労働者の賃金は大宰府が支払った。銀の採掘は幕末で衰退した。

伴天連追放令

平戸の田平天主堂

天正15年(1587)、豊臣秀吉は九州平定直後、博多でキリスト教宣教と南蛮貿易を禁止し、伴天連(ばてれん)を20日以内に国外追放することを命じた。その理由には諸説があり、キリスト教が拡大すると一向一揆のような反乱を起こす恐れがあると考えた、日本は神国であるとの主張からなどの説がある。追放令が出ると、宣教師たちは平戸に集まり、布教活動を控えた。伴天連(ばいてれん)とは、キリスト教が日本に伝来した際、宣教に携わった司祭に与えられた称号で、ポルトガル語で「神父」という意味のpadre(パドリー)にちなんでいる。

平戸オランダ商館設置

平戸オランダ商館

慶長14年(1609)、江戸幕府から貿易を許可された東インド会社が、東アジアにおける貿易の拠点として「平戸オランダ商館」を設置した。当初は土蔵付きの住宅1棟を借りて営業していたが、貿易の拡大とともに整備が拡大され、寛永14年(1637)~16年(1639)に建てられた倉庫は規模が大きく、貿易の象徴とされた。しかし、寛永17年(1640)には、前年に建造された倉庫にキリスト生誕にちなむ事柄があるとされ、当時の禁教令の下、将軍徳川家光の命によってすべての建物が破壊された。商館は翌年、長崎の出島へ移った。現在、跡地には寛永16年(1639)築の倉庫が復元されている。国指定史跡。

 

出島設立

出島

寛永11年(1634)、幕府が築いた約1万3000平方メートルの人工島、「出島」。鎖国時代の200年余りにわたって、日本で唯一西洋に開かれた海外貿易所。扇形をした島の周囲には土塀がめぐり、一つの橋だけが架けられていた。19世紀には、島内に住居や料理部屋、蔵、番所など49棟の建物があり、現在はそのうちの25棟の復元が進められ、10棟が完成している。国指定史跡。

 

島原の乱

原城跡竪穴建物跡群

寛永14年(1637)~15年(1638)にかけて起きた「島原の乱」は、16歳の天草四郎を首領とし、天草および島原で起きた百姓一揆。領主の交代によって行われた、農民らキリシタンの取り締まりと、重い年貢の取り立てが発端となった。当初は一揆側が優勢に戦を進めていたが、九州諸藩の討伐軍が近づいてくることを知り、天草四郎ら2万数千人が原城址に籠城。幕府から派遣された板倉重昌は、城址に攻め込み戦死した。次いで松平信綱が九州諸大名の先頭に立ち、12万以上の軍勢とともに戦い、ついに城を攻落。天草四郎は討ち取られ、乱は鎮圧された。

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