擦文時代とトビニタイ文化のあと、北海道の先住民族とされるアイヌの人々の文化時代が訪れる。13世紀頃、本州から北海道南部に和人(アイヌ以外の日本人)が進出。彼らとの交易が盛んになり、アイヌの暮らしに大きな変化をもたらした。15世紀後半を過ぎると和人の活動領域が広まり、アイヌと和人の対立が激化する。その争いを鎮定したのが蠣崎(かきざき)氏(のちの松前氏)で、松前藩が誕生するとアイヌ民族との交易権を独占するようになった。だが、争いは収まらず、18世紀になると松前藩はアイヌへの支配を一層強め、時の流れとともにアイヌの伝統的な社会や文化は消えてしまった。アイヌ文化時代は明治期に入るまで約700年続いた。阿寒湖畔には戸数36、約200人が住む道内最大規模のアイヌコタン(集落)がある。
アイヌ文化時代
アイヌとは、アイヌ語で「人間」という意味だ。当初、アイヌの人々はコタン(集落)単位で生活を営んでいたが、15世紀になると交易や争いなどから複数のコタンがまとまり、さらに17世紀には狩猟や漁労場所を含む広い地域を統合する首長が現われたという。アイヌの住居をチセといい、2間×3間あるいは3間×4間が一般的な造りで、屋根も壁も茅(かや)が使われた。入り口が風や雪にさらされるのを防ぐために土間を設け、内部には炉が切られていた。生業は狩猟、漁猟、農耕などで、サケを主食とし、秋には遡上するサケを大量に獲り燻製にして保存食とした。大地では粟(あわ)や黍(きび)を栽培し、炊飯や粥で食べ、稗(ひえ)からはどぶろくを醸造した。
アイヌと和人の戦い
アイヌの民族的なまとまりが強まるのは、日本の鎌倉時代から戦国時代。この時代に本州から和人が進出し交易が行われるようになるが、いざこざが絶えずアイヌの人々は武装蜂起を行うことになる。その主な戦いに次の3つがある。
コシャマインの戦い
1456年(室町時代後期)、道南で和人の鍛冶(かじ)屋がアイヌの少年を殺害。翌年、渡島半島(道南)東部の首領コシャマイン率いるアイヌ軍は和人の居館を攻め落とすが、松前藩主松前氏の始祖・武田信広の策略でコシャマインは討たれ、アイヌ軍は敗北する。これをきっかけに和人の支配は強化されることになる。
シャクシャインの戦い
1669年(江戸時代初期)には、太平洋側の日高地方でアイヌの狩猟採集場をめぐる争いに端を発し、アイヌと松前藩が戦う。争いは互角で和睦を結んだが、酒宴の最中に首長のシャクシャインが謀殺され、またもアイヌ軍は敗れてしまう。
クナシリ・メナシの戦い
1789年(江戸時代後期)、オホーツクで場所請負人の商取引や労働環境など横暴な和人の振舞いに怒りを感じたアイヌの人々が蜂起に出る。このときも松前藩は出兵するが、近辺の首長らの説得により戦闘には至らず、和人の死者72人、蜂起の中心となったアイヌの37人は処刑された。これがアイヌの和人に対しての最後の武力抵抗となり、和人による政治経済的支配はさらに強まっていった。