唐津領と天領の境界に立つ藩境石を眺めつつ、往時に思いをはせる

唐津初代藩主・寺沢広高(てらざわひろたか)の時代には、二里に延びる虹の松原を藩内に収めていたが、後の藩主にの時代に東半分が幕府に返上され、幕府領(天領)となった。その天領と藩領の境界に立つのが、この藩境石だ。虹の松原一揆では、ここを中心にして2万5000人が結集したといわれる。
天領内での騒動が幕府に知られれば、藩主の統治能力を問われて改易にもなりかねない。一揆の統率者・冨田才治(とみたさいじ)は、そんな藩主の弱みを知り尽くしたうえで、ここを決起の場所に選んだのだった。当時、領内の農民は約5万人といわれ、2人に1人がこの周辺に結集したことになる。
騒然とした情景が思い浮かべられるかもしれないが、村ごとに旗を立てて縄を張り、スパイなどの見知らぬものが紛れ込む隙をつくらぬよう、実は緻密なルールで統制が取られていたという。