先史時代

北海道の歴史

北海道に人が住みはじめたのは、約2万年前の氷河期と推定されている。人類はシベリアからマンモスなどの大型哺乳動物を追って宗谷海峡を南下し、さらに氷河期が終わると本州からも渡来したと考えられている。道内で最も古い遺跡は、千歳市の祝梅三角山遺跡や上士幌町の嶋木遺跡などで、旧石器時代の遺物は道内各地で見つかっている。道南の知内町(しりうちちょう)湯の里4遺跡では、1万4000年前の国内最古の墓跡と多くの石器が発見され、墓跡と163点の石器が平成3年、国の重要文化財に指定された。本州では縄文時代が終わると弥生時代へと移行するが、北海道は気候の面から稲作が不可能で、今までと同じ漁や狩猟を中心として生活していたことから続縄文時代と称される。


擦文時代

擦文文化の土器(写真提供/東京大学常呂実習施設)

本州の飛鳥時代から平安時代に当たる7世紀から12世紀頃の時代で、土器は煮炊きに使用する深鉢形のものが中心となり、本州から土師器(はじき)や須恵器(すえき)なども流入してきた。土器の表面を刷毛で擦った痕があることから擦文(さつもん)土器、擦文時代と呼ばれる。集落は河川流域に見られ、サケやマスなどを獲る秋から冬にかけては河口の丘陵上に竪穴住居を構え、大集落を形成。漁労のほか麦、粟、黍(きび)、そば、稗(ひえ)、豆などを栽培し食料を得ていた。方形の住居にはカマドがあり、屋根には茅を葺いていたという。オホーツク海に注ぐ常呂川(ところがわ)河口付近にある国の史跡・常呂遺跡の竪穴群約2500のうち、2000以上がこの時代のものとされている。擦文文化は、アイヌの人々の祖型の文化と考えられている。

オホーツク文化

オホーツク文化の堅穴住居跡(写真提供/北見市教育委員会)

擦文文化とほぼ並行して、北海道北部から東部のオホーツク海沿岸にはオホーツク文化が生まれ、日本海沿岸の後志地方にまで波及した可能性があるといわれている。人々は海を生業の場とする海洋狩猟民ではないかと考えられ、アザラシや魚介を獲って生活していたらしく、稚内や紋別、網走、羅臼、根室などの遺跡からは釣り針やモリ先などの発達した漁具、アザラシやトドの骨が発見されている。住居は五角形や六角形の大きな竪穴式で、室内にはクマの頭蓋骨を祀る骨塚が設けられ、また独特な死者の埋葬法など、精神文化の面でも独自性が強い人々たったと想像されている。常呂遺跡には擦文時代のものに混じってオホーツク文化の住居跡も見られる。

トビニタイ文化

トビニタイ文化の土器(写真提供/東京大学常呂実習施設)

オホーツク文化が後期を迎えると擦文文化の影響を受け、両者の文化を取り入れたトビニタイ文化が発生した。道東および国後島付近に存在し、土器や竪穴式住居もそれぞれの文化を融合。住居は海岸付近だけではなく内陸部へも広がり、クマの崇拝は続けられたという。トビニタイとは、出土物を発見した羅臼町飛仁帯(らうすちょうとびにたい)にちなむ。

たびらいセレクション

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