青函連絡船は、かつて本州と北海道を結ぶ大動脈として旅客や貨物を運びました。北海道の発展に大きな役割を果たしましたが、青函トンネルの開通とともにその役目を終えたのです。青函連絡船のひとつ「摩周丸」が保存され、現在は記念館として青函連絡船の歴史や当時の役割を伝えています。船からのぞむ景観も人気があり、「はこだてロマンティック・ビュー」と名付けられた甲板からの眺めは特におすすめ。
記念館として使われている「摩周丸」は、洞爺丸事故のあとに生まれた、高度に自動化されたディーゼル船。当時は「海の新幹線」と呼ばれていたほどの性能で、最盛期には同系船13隻が運航。1日に30往復していたことも。青函連絡船は鉄道連絡船のひとつで、レールを渡せない海上区間を結ぶ役割を担いました。上野―青森間、函館―小樽間の鉄道が全通したことで青森―函館間を結ぶ航路の重要性が高まり、明治41年(1908)、国鉄青函連絡船が就航。イギリスで造られた、当時としては最新鋭のタービン蒸気船2隻が運航されました。
大正14年(1925)、船の中に線路を敷き、貨物を貨車ごと運ぶ「車両航送」という輸送方法に。当時は函館駅から、現在は駐車場と公園になっている若松埠頭まで鉄道線路が伸び、函館に到着した貨物列車はそのまま船に積み込まれ青森を目指しました。
続々と連絡船が就航し岸壁が増設される中、昭和20年(1945)に悲劇が。戦災により、青函連絡船が全滅したのです。終戦とともに運航を再開。航路復興を目指し、昭和22年(1947)には豪華客室を備えた洞爺丸(とうやまる)が就航しました。しかし、昭和29年(1954)、青函連絡船を再び悲劇が襲います。台風15号の襲来、「洞爺丸台風」。洞爺丸だけではなく5隻の連絡船が沈没してしまいました。これを機に根本的な見直しが図られ、昭和39年(1964)から旧型船を一新し新型船が就船します。そして昭和63年(1988)3月13日には青函トンネルが開通。それに伴い、青函連絡船は80年という長い歴史に幕を閉じました。