小江戸「川越」で歴史さんぽ
江戸情緒を感じる蔵造り商家がズラリと並ぶ小江戸・川越。川越城の本丸御殿、江戸城紅葉山の別殿を移築した古刹など、歴史好きには堪えられないスポットが目白押しだ。
![明治の大火で焼失するも翌年には復活した川越のシンボル時の鐘 明治の大火で焼失するも翌年には復活した川越のシンボル時の鐘]()
江戸の日本橋から13里(約50キロ)、現在の埼玉県南西部にある川越市を“北の防衛線”と重要視したのが、徳川家康だ。天正18年(1590)に関東に移ると川越藩を設置。藩主には譜代の酒井重忠をはじめ有力な大名が歴任し、川越藩17万石の城下町が整備されていく。商人・職人町、寺町、武家地など、城郭を中心にした町割りの面影は今も色濃く残り、蔵造りの商家が並ぶ「一番街」、藩政時代の政庁が残る「川越城本丸御殿」、徳川家ゆかりの「喜多院」や「千波東照宮」など、エリアごとに町の様子が変わる。町内を一周しても2時間ほど。便利な周遊バスも運行しているので、のんびりと街歩きを楽しんでみよう。
耐火性はもちろん店舗としての見栄えも考慮した店蔵
![ゼロからこれだけの商家を建てた川越商人の財力の凄さが分かる ゼロからこれだけの商家を建てた川越商人の財力の凄さが分かる]()
何はともあれ「一番街」へ。仲町交差点から札の辻交差点までの約400メートルのエリアに、黒漆喰の土塀、豪壮な瓦屋根を施した重厚な蔵造り商家が三十数軒も集まっている。いずれも現役で活躍するため商人町の活気があり、歩くだけでも楽しい。蔵造りの建物は防火のため。川越は幾度も大火に見舞われ、その都度復興してきた歴史がある。明治26年の大火では1300戸以上、実に町の3分の1が焼失した。この時、江戸後期の蔵造り商家「大沢家」などが類焼を逃れたことと、蔵造り商家が連なる日本橋への憧憬などから、火事に強い蔵造りが次々に建てられる。
蔵造り商家の特徴は、店舗を蔵造りにした“店蔵”であること。それだけに、防火機能に装飾的な要素をふんだんに取り入れてある。たとえば、凸字型をした屋根の最上部にある箱棟。屋根を支える棟木を保護するもので、木製の芯に漆喰を塗り重ねている。なかには壁のようにひときわ高いものもあり、両端には鬼瓦が配されている。また、窓には観音開きの分厚い扉が付いている。扉本体と建物の枠には階段状の細工が見られ、万一の場合はぴたりと閉ざされ高い密閉性を発揮する。明治時代の煙草卸商・旧小山家住宅を資料館とした「川越市蔵造り資料館」を訪ねれば、外観だけでなく商家の内部や敷地内の蔵の配置などが見学できる。
川越一番街にはモダンな洋館もある。緑色の塔屋に縞模様の飾り柱が目を引く「埼玉りそな銀行」は大正7年、旧国立八十五銀行本店として建てられた。同行は川越藩の御用商人横田五郎兵衛、黒須喜兵衛らによって設立された埼玉県初の銀行だ。この建物とともにランドマーク的な存在が「時の鐘」だろう。寛永4年(1627)に藩主・酒井忠勝が領民に時間を知らせるために建築したのが始まりで、現在も1日4回(6時、正午、15時、18時)、美しい鐘の音を蔵の町に響かせる。
一番街を札の辻交差点まで歩いたら、左に曲がりL字型の路地に入ると20軒ほどの菓子屋が軒を連ねる「菓子屋横丁」がある。このあたりでは明治期から菓子を製造していたが、大正期の関東大震災で東京の菓子屋が被害を受けるとその需要が急増。昭和初期まで70数軒の菓子屋があった。現在も手作りの黒糖飴や金太郎飴、麦の粉と黒糖を混ぜて煮詰めた麦棒、堅焼きの煎餅、鯛焼きなどを製造・販売する。小銭を握りしめて駄菓子屋を訪ねた子どもに戻り、買い食いするのも楽しい。
東日本では唯一、本丸御殿が現存する
![唐破風屋根の最上部には、金箔を張った葵紋が掲げてある 唐破風屋根の最上部には、金箔を張った葵紋が掲げてある]()
一番街から東へ10分ほど歩くと「川越城本丸御殿」に着く。本丸御殿とは城主の住まいと仕事場であり、家臣たちも常駐した。いわば政治の中心地と言える。川越藩の場合は江戸初期までは将軍が来藩した際に滞在する御成御殿として利用され、藩主は二ノ丸御殿に暮らした。一時、本丸御殿は解体されるが、弘化3年(1846)に二ノ丸御殿が焼失したため、嘉永元年(1848)に現在の本丸御殿が新築される。17万石の本丸御殿らしく16棟1025坪の規模を誇った。現在は広間と玄関部分が残る。
玄関前に立つと巨大な唐破風屋根に圧倒される。館内に入ると正面は36畳の広間。藩主との面会者が待機した部屋で、「朝日に松」と題された杉戸絵を間近に見られる。大広間前の東廊下は長さ40メートル、幅3メートル、床板にはケヤキ板を使用している。廊下を歩いて裏手に回ると、移築復元された家老詰所があり、人形3体を使って会議の様子を再現してある。
ところで、川越城の起源は室町期の長禄元年(1457)まで遡る。武将・扇谷上杉持朝が古河公方・足利成氏に対抗するため、太田道真・道灌父子に命じ築城させたのが始まりだ。その後、後北条家が支配するが、豊臣秀吉の関東攻略で落城。徳川家の支配となり、寛永16年(1639)に松平信綱が赴任すると本丸、二ノ丸などの各曲輪、3つの櫓、13の門を持つ近世城郭に拡張される。本丸御殿から5分歩くと富士見櫓跡がある。鬱蒼とした樹林の中に石碑と神社の社殿が立つのみだが、その名前からして当時は富士山が望め、見張り台として活躍した。
ヒソヒソ話が聞こえてきそうな表情豊かな五百羅漢
![五百羅漢の会話を想像しながら見るとより楽しい 五百羅漢の会話を想像しながら見るとより楽しい]()
川越には名刹も多い。天長7年(830)に天台宗の慈覚大師円仁が開いた喜多院もその1つだ。第二十七世住職は徳川家康、秀忠、家光の三代に仕えた天海大僧正である。寛永15年(1638)に発生した川越大火により、ほとんどの堂宇を焼失したが、3代徳川将軍・家光はすぐさま江戸城紅葉山の別殿を移築させて客殿、書院、庫裏に当てた。舟運ルートとなる新河岸川は解体した建材を運ぶために整備された。
客殿と書院は見学可。客殿は12畳半2室、17畳半2室、10畳2室からなる。このうち12畳半1室は上段の間で、襖には墨絵の山水、天井には81枚の花模様が施された豪華な雰囲気。湯殿と厠(便所)も備わり、3代徳川将軍の家光がこの部屋で生まれたと伝わることから、「徳川家光誕生の間」とも呼ばれている。客殿につながる書院では、家光の乳母・春日局が使用した「春日局化粧の間」も見られる。
境内の五百羅漢像も人気が高い。江戸時代に約50年間かけて建立された538体の石仏が集まる。なかでも、釈迦の十大弟子や十六羅漢は喜怒哀楽の表情を浮かべ、寝転んだり、話し込んだりと仕草もユニーク。深夜、羅漢像の頭に触れて温かい像があれば親の顔に似ているという語り伝えが納得できるほど人間っぽい顔をしている。1体ずつゆっくりと拝観したい。
隣接の仙波東照宮は寛永17年(1640)に再建したもの。元和3年(1617)徳川家康の遺骸は、遺言に従って静岡県・久能山東照宮から栃木県・日光山東照宮へ移された。その一行がこの地を通過祭する際、天海は大法要を執り行い、その記録として自ら徳川家康像を刻み大堂に祀った。寛永10年に仙波東照宮の社殿が完成したが、同15年の川越大火で焼失している。ちなみに、仙波東照宮へ参詣するために整備されたのが川越街道だ。水陸の交通路が整備されたのは、天海大僧正の存在が大きかったといえる。