雅な和歌の心が息づく日本庭園・六義園
六義園は、江戸時代に五代将軍・徳川綱吉の信任が厚かった川越藩主・柳沢吉保によって造られた。和歌の世界を表現し、繊細で優美。変遷の激しい都心に、これほどの名園が残ったことは奇跡とさえ思える。
![藤代峠から眺める春の六義園 藤代峠から眺める春の六義園]()
山手線の駒込駅近くに広がる六義園(りくぎえん)は、元禄15年(1702)に川越藩主・柳沢吉保(よしやす)によって造園された。吉保は和歌や文学の知識を活かし、風光明媚な紀州和歌の浦の景色や、『万葉集』や『古今集』に詠まれた景勝地を園内に88カ所も再現。どこを見ても温和で情緒的な景観が広がっている。
四季の変化が美しく、特に春のシダレザクラや、秋の紅葉のライトアップの時期は多くの来園者でにぎわう。江戸期からの景観を留め、文化や歴史を伝える六義園は、富士山や金閣寺などと並んで国の特別名勝に指定されている。国宝級の庭園といえるだろう。休日にはボランティアガイドによる「庭園ガイド」を実施。
【バスツアーで六義園へ行こう!】
バスツアーなら六義園まで直通らくらく!
歩き疲れても、帰りのバスで休むこともできる。
▼出発地から選べる▼
≪東京発≫≪神奈川発≫≪千葉発≫≪埼玉発≫
≪群馬発≫≪栃木発≫
大火も戦火も潜り抜け、江戸時代の面影を留める
![枝ぶりがみごとなシダレザクラ。1日4万人の見学者が来場 枝ぶりがみごとなシダレザクラ。1日4万人が来場したことも]()
駒込駅から南に歩くと、まもなく重厚なレンガ塀が現れる。コンクリートの街から一歩入った六義園は別世界だ。青々と木立が茂り、心なしか空気も澄んで感じる。柳沢吉保は、将軍から下屋敷として与えられたこの地に、自ら設計・指揮をし、7年の歳月をかけて六義園を完成させた。吉保没後はしだいに荒廃したが、明治期に三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が購入し、整備した。昭和13年(1938)に岩崎家から東京市に寄贈され、以後、一般公開されるようになった。六義園は、火災や関東大震災、東京大空襲でも大きな被害を受けず、今も奇跡的に造園時の面影を残している。
内庭大門(ないていだいもん)をくぐると、高さ15メートル、幅約20メートルのシダレザクラが目を引く。例年、3月末に見ごろを迎え、夜は「しだれ桜と大名庭園のライトアップ」が行われる。この時期は多くの鑑賞客でにぎわう。左手に進むと、いよいよ六義園の全景が現れてくる。中心に大泉水という大きな池を配した「回遊式築山泉水」の庭で、園路をたどりながら風景の移り変わりが楽しめる。昔の人たちは少し歩いては休み、1日かけてゆっくり鑑賞したという。
名句の情景が目の前に広がる
![ガイドさんの説明を聞きながら吹上松を見学する ガイドさんの説明を聞きながら吹上松を見学する]()
出汐湊(でしおのみなと)と名がついた池のほとり立つと、中の島や蓬莱島、対岸の吹上浜などを望む美しい景色が広がる。そして、目の前には山部赤人が詠んだ『万葉集』の中の句“わかのうらにしほみちくればかたをなみあしへをさしてたづなきわたる”が表現されている。和歌の浦が広がり、中の島には片男波海岸があり、たづ(鶴)の名が付いた橋が架かっている。六義園の特徴は、先に和歌があり、和歌を基に風景を作ったことだ。このような場所は園内に88ヵ所あり、六義園八十八境としてそれぞれの地に石柱を立てた。現在も32カ所に石柱が残っている。
歩き進むと、吉野山を模した山桜の林を進む尋芳径(はなとふこみち)、江戸時代からの歴史があるといわれる吹上松、モミジに囲まれたつつじ茶屋、深山の趣がある山陰橋など、変化に富んだ風景が続く。都心にいることを忘れ、全国を旅している気分になる。
藤代峠から園内を一望すれば大名気分に
![幻想的な「紅葉と大名庭園のライトアップ」 幻想的な「紅葉と大名庭園のライトアップ」]()
六義園散策のハイライトともいうべきなのが、標高35メートルの築山である藤代峠だ。富士見山と名付けられた山頂からは園内を眼下に見晴らすのびやかな風景が広がる。この峠は、紀州(現在の和歌山県)にある同名の峠から付けられたという。山頂には、五代将軍・綱吉の生母である桂昌院も座ったかもしれないとされる石がある。
園内には多くの植物があり、花も季節ごとに咲き継ぐ。春はサクラやツツジ、フジ、夏はアジサイ、秋はハギ、冬もウメやツバキなど。秋は紅葉もみごとで、例年、11月下旬~12月上旬に見ごろを迎え、夜は「紅葉と大名庭園のライトアップ」が行われる。
土・日曜、祝日には、11時と14時に出発し、約1時間で園内を解説する「庭園ガイド」(無料)を行っている(ライトアップ期間中は毎日)。解説を聞くと、何倍も六義園散策が楽しくなる。